教育とは
教育とは人として(日本であれば日本人として)、人間社会で生きていくため知識を獲得するためのものだ。
生まれて間もなく、おむつを付ける。これは、他人に迷惑をかけないための初期教育かもしれない。
服を着る。これも教育だ。
スプーン・箸・茶碗・皿などの使い方を学ぶのも教育だ。
人として、生きていくための効果的な方法。
基本知識である。
幼稚園や学校でも様々な事を学ぶ。
知識だけでなく、人間社会の中で、あるべき姿を学ぶ。
日本の教育
日本の教育は、本当によくできている。個々の能力に対して、最大公約浸透度を重視し、結果として国民的な知能レベルは平均に高い。結果として犯罪率も抑えられ、治安も維持されている。
日本は皆を救おうとする国だ。
しかしその半面、飛び向けた才能を生み出す可能性を縮小している。
その事について、批判的な意見を目にするが、それは、パラダイスとカオスのバランス調整の結果であり、やむを得ない事だ。
可能性の制限
教育とは、思考や行動の範囲を削っていく作業でもある。飛びぬけた人材の発生確率と安全・平和のトレードオフ構造だ。
少ない可能性から、飛び向けた才能を見出したものは、皆に還元してほしいという国でもある。
しかし、それは中々難しい。自分の功績を分け与えるという事は、インターネットに発展よる情報収集可能性領域の拡大によって、より困難になっている。比較の対象が無限に広がってしまったからだ。
無明と教育
「無明」それは、人間の基本的な性質と言ってもいいだろう。目の前にあるものが全く見えていない。教育とは「無明」を作っていく作業でもある。科学分野では「スコトーマ」という言葉が近しい。要するに「盲点」だ。
この「盲点」を意図的に作り出すのも教育だ。作り出してしまうと言った方がふさわしいかもしれない。
何故なら、教育側に悪意はない。よりふさわしい人間性を獲得するための手助けを、基本的には、心を込めて行っているのが教育者だ。
なぜ「無明」となるのか。
人間という個体の限界
個体差はあるものの、人間の肉体、個体としての限界値がある。思考を司る脳の大きさもそうだ。地球環境における、恐らく生物としての最適解が人間だ。この大きさが適している。知性や運動能力・集団性・組織性においても結果として適切なのだろう。
当然、記憶容量も限られてくる。
そこでさらに、教育という圧力で、個体の能力が絞られていく。科学技術の発達も悪影響の側面があるだろう。これもある意味で圧力をかける事になる。
ある意味で
教育とは「無明」生産装置
なのだ。
これは二千年以上前から変わらない。
人間の限界であり、社会システムの基本構造だ。
グローバル化と「無明」領域の拡大
また、インターネットやスマートフォンの普及で、世界には、多くの知識や研究に止まらず、多様う名価値観もあり、そういったグローバル化が進むときにも、「無明」が加速する。
見えていないものが、一気に増える。しかし、その事に気付かないかとがまさに「無明」であり、ひとつ例を挙げれば、自分の価値観の外から突然やって来る言葉のエネルギーに対して、無残に敗北する。誹謗中傷というやつだ。
「無明」見えていない事。
まずはそれに気づくこと。
自覚的になること。
しかし、それが中々難しいという事なのだろう。
今まではそれでも何とかなったのだが…
🧠 1. 教育と思考制限に関する理論
■ イヴァン・イリイチ『脱学校の社会(Deschooling Society)』
- 教育制度が知の独占を生み、「学ぶ自由」を奪っていると批判。
- 学校は「制度化された無明」を育む装置と捉えた。
- 👉 教育の制度化が「自由な知の探求」を阻害するという視点で非常に近い。
■ パウロ・フレイレ『被抑圧者の教育学(Pedagogy of the Oppressed)』
- 「銀行型教育」を批判し、「対話による意識化(コンシエンティザソン)」を提唱。
- 教育は時に権力の道具となり、支配的世界観を内面化させる。
- 👉 無明=他者の価値観の内面化と読むことが可能。
■ ジャン・ピアジェ(発達心理学)
- 子どもの知性は段階的に発達し、既知の枠組み(スキーマ)で世界を理解する。
- 教育が枠組みに依存すると、「新しい可能性」が見えなくなることも。
- 👉 無明=スキーマの強化による思考制限と読み替え可能。
🔬 2. 科学・脳科学的観点(無明=スコトーマ)
■ 苫米地英人『スコトーマ(盲点)理論』
- 人間は自分のRAS(網様体賦活系)に基づいて、情報の取捨選択をしている。
- 教育とはRASに特定のフィルターをかける行為。
- 👉 無明とは「見えないのではなく、見ようとしていない」こと。
■ ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』
- 思考には「システム1(直感)」と「システム2(熟考)」がある。
- 教育は多くの場合、システム2を弱化し、パターン学習(=思考停止)を促す場合がある。
- 👉 教育が「深く考えないこと」を条件づけてしまう可能性に注目。
🏛 3. 哲学・構造批判・社会思想
■ ミシェル・フーコー『監獄の誕生』『知の考古学』
- 教育・医療・監獄などの制度は「規律=支配構造」を内面化させる仕組み。
- 見えない力(ディシプリン)が個人を無意識に形作る。
- 👉 教育=権力の延長線であり、盲点(無明)を作る構造体という視点。
■ ジャック・デリダ(脱構築)
- 教育で前提とされる「常識」や「論理」の背後にある構造そのものを問い直す。
- 👉 「教育された価値観そのものが偏っている」可能性の提起。
🌏 4. グローバル・インフォメーション社会の視点
■ マニュエル・カステル『情報時代の社会』
- グローバル化により、情報は偏在し、ナラティブは分断される。
- 教育による統一的価値観形成が、ネット時代では崩れる構造を持つ。
- 👉 「教育された者」ほど、見えていない世界があるという逆説。
🧘♂️ 5. 東洋的観点(無明と教育の対応)
■ 釈迦の教え『無明=根本煩悩』
- 「無明」とは、世界の真実(縁起・空)を知らないこと。
- 社会的教育とは、しばしばこの「真実からの遠ざかり」を助長する。
- 👉 構造を見抜く瞑想・内省が、無明からの脱出に必要という思想。
■ 老子『道徳経』
- 「知を増すは、道に遠ざかる」
- 知識は便利だが、「本質」や「自然の理(道)」からは遠ざかることがある。
- 👉 教育=無明の強化という逆説的視点に共鳴。
🔁 関連キーワード整理
- 教育の制度化/脱教育化
- 思考のスキーマ/スコトーマ(盲点)
- 価値観の内面化/ディシプリン(規律)
- 意識化(コンシエンティザソン)
- 「常識」の再検証/脱構築
- 知と無知の構造化/抽象度コントロール
- 真理からの隔離=無明/再統合の瞑想
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